守・破・離

ynfp2008-07-28

あくなき向上心を持つ後輩 国実氏より指名を受けました 篤 幸太郎です。
つまり、幸せ太郎です。お久しぶりです。


昨日の話に寄せて


大変お世話になっている社会人の方に言われた話


「”型なし”と”型破り”は明確に違う。後者であれ。」確かこのような内容でした。

僕は大きな納得をしました。知っていたようで、特に意識していなかった、意識できていなかった部分にはっきりと形を与えられた感じでした。
ありがとうございました。この場を借りてお礼申し上げます。


基本も知らず、自分だけのやり方で進み、勝手にやるものには型はない。
基本を知り、マスターした上で、その型を超える、型を破る。


似ているようではるかに離れた言葉であると思います。


これを受けて、思いました。


基本を知らなくても、自分なりのやり方で突き進んでいけば何かの型ができるのでは??それもいいのでは??

しかし、直後にこう思いました。


そうやって到達した”型”が既に存在するものだったら?? 
国実も書いていたように、何も知らずに、基準も分からずにやっていると時間と労力がとても掛かるんだと思います。ゴールの方向も距離も分からない、そもそもちゃんと道を歩いているのかすらわからない。地図もなく現在地も分からない。そんな状態で「行ってこい」と放り出されたところで、何も情報を得ようとしないなら何かできるのだろうか。


しかも、やっとの思いで何かつかんだものが、そう「既にあるもの」だったら


「何年もかけて自分は何をやってきたんだろうか」と。それも、数年でなく、何十年もかけてそうなった場合、どう思うのでしょうか。
悔やんでも悔やみきれないのか。  はたまた満足か。

僕は前者の感情を抱く気がします。自己満足のみに人生を懸けたくはない。


できないことが、できるようになった。
それは嬉しいことだな、と思います。しかし、単にそれだけであれば、自己満足で終わりな気がします。


人と違うこと、人がまだ到達していないこと、未知の部分、まだ行けていない部分、これを成してこそ、それに寄与してこそ、今生きている意味があるのではないかと思います。モチベーションの中に「自分の満足感」はあると思います、がそれはあくまでも途中経過、エネルギーの一部として、「成すこと」「想いを現実にすること」に焦点を当てたいと思っています。


人間、今のところ生きれて100年程度、僕は22歳、きっちり生き抜くとしても残り78年間


かつての今を生きた人たちが、成し、積み上げてきたものを、トレースするのもいいんですが、そればかりしていてはいざ次のことをする時間がない気がします。先人たちが、その人生を懸け積み上げてきたのならば、ありがたくそれを頂いて、できるだけすばやく吸収して、その上に乗せるものに自分の人生をかけるべきである、そう思います。


そうやって、素早くより効率的により効果的に吸収するために、過去の人たちがまとめあげてくれた、託してくれた結晶が「型」であるのだと思います。ばらばらだったら、集めるのに、整理するのに、それから学ぶのに、とても労力と時間がかかりますもんね。


だからこそ、その「型」を学び落とし込み、型を破って上乗せして進んでいく。型破り


そして、まだ続きがあります。そう、自分の代で終わりじゃない。自分の代で完結するようなもんじゃない。
次につなげなきゃ、しっかりと。また積んでもらうために。そのための今、生きて何かをできる時間を持っているんだから。


これをきれいに表すものとして
「守・破・離」という言葉があります。


「一般的には、「守」は、師についてその流儀を習い、その流儀を守って励むこと、
「破」は、師の流儀を極めた後に他流をも研究すること、「離」は、自己の研究を集
大成し、独自の境地を拓いて一流を編み出すこととして説明される。」


「破」から「離」にさしかかるところに「型破り」があると思います。


つまり、先ほどの「型破り」の“続き”が「離」であると思うのです。
守られた型から入り、その型を破り、そこから離れて新たな型を生む


その繰り返しで、積み上げ、次につなげていくのだなと思いました。


すべての行為に通じる大事なことだと思ったので、再び長々とですが、書かせてもらいました。


そして最後に伝えたいことをもうひとつ
先ほど「人と違うこと、人がまだ到達していないこと、未知の部分、まだ行けていない部分、これを成してこそ、それに寄与してこそ、今生きている意味があるのではないかと思います。」と書きました。
「それに寄与してこそ」というのがポイントです。そして「自分で完結するようなもんじゃない」ということがポイントです。


これは横と縦の広がりだと思っています。


何かと言うと、横は現在いる仲間たち、今を生きる人々、縦は昔の先人達、かつての今を生きた人々、そしてこれからの今を生きていく人々
その人たちみんなと一緒にやるんだ、やっているんだ、ということ

自分一人で成す必要はない、ということです。もちろん、自分一人で成してもいい。
しかし、同じ時間、同じ労力で、チームでやったら何倍もの成果を生み出せるのならば、そちらをとってほしい、そう思いますし、そうでありたい。

「できる」のは自分でなくてもいいのです。結果として「できた」状態があれば、自分が中心でなくてもいいと思います。
「自分が、それをできる、成す」ということに焦点を当てると、たとえば100日かけてできてもそれは満足でありオッケーです。
しかし、それがもし10人でチームを組めば5日で終わるとします。


どちらをとりますか?


僕は迷わず後者をとります。5日で同じ成果を生み出せば、残り95日をまた別なことを成すことにあてられます。
「成果を生み出す」(必ずしも利益的な意味ではありません!)ということに焦点を当てて行動してほしい、と僕は思います。


はたしてあなたはどちらの思考ですか? この切り替えって物事に当たる上でとても大きな意味をもつと僕は感じています。あくまで篤の意見ですが。


長くなりました、書きだすともっともっと書けますし、書きたいですが、もう気づけば原稿用紙6枚分に到達してしまったのでやめます。発信したいことっていっぱいあるもんですね。


長文最後までお読みいただきありがとうございました。いろいろエラそうに書きましたが、こう思っていてもできてません。しかしまだできていない、だけです。がんばってできるようになります!学業や、そのほかいろいろとありますが、この学生フォーミュラで、僕は5年間やってきた以上 守・破・離を成したい、伝えたいなと思います。


それでは、また☆